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果報は寝て待て(-_☆)


果報を寝て待ってはいるのですが・・・
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いろんなコトの整理

    

チョット重いデス・・・・・・・・・・・・・・・・・。
内容も記事も。

1人ごとに近いので、皆さんスルーして下さい。
(じゃぁ書くな!!ってツッコミはナシな方向でヨロシクです)




5月末にお父さんを亡くして、早いもので間もなく5ヶ月がたとうとしています。

今まで職業柄、人の死という場に立ち会う機会があって、自分の身内だと返って感情とかって沸かないのではナイのだろうかと心配すらしていた私。
実際に、祖父母を亡くした時も私なりには悲しかったのですが、冷静に送り出してきました。

それが・・・・。


お父さんの死は私にとって、とても大きなコトでした。


お父さんの病気が発覚して、その内容を聞いた時点で私は、既にお父さんの死というモノを意識した。
それは一応、看護師として働いてきた経験と少しの知識がそう言ってたから。

僅かな希望を託して治療を試みましたが、それも効果が期待できないコトもわかってた。

だからお父さんが救急搬送されたという連絡を受けた時だって、もう間に合わないのかも知れないとさえ思いつつも実家へ向かっていた。


お父さんが急変してから約2ヶ月。
お母さんの病気の発覚→手術も重なっていたコトもあって、私は帰省して実家で過ごした。
お父さんのトコロへは毎日通った。
日に2回行くこともあった。
夜中に呼び出されることもしばしば・・・。


亡くなる前日、肝性昏睡となったお父さんは今までのようなコミュニケーションがとれなくなった。
何度も私は「お父さん、berryだよ?わかる??」と言うけれど、他の問いかけの反応と同じで、焦点が合うコトもなくただ頷くだけ。
個室に移して、スタッフの人にもお願いをして一晩お父さんに付くコトにした私。
消燈過ぎまでお母さんも一緒だったけれど、お母さんに倒れられても困ると思ってお兄ちゃんに迎えに来てもらった。

その夜、私のオットも仕事が終わってから駆けつけてくれたので、オットと一緒にお父さんの傍にいることにした。


体がダルいのか、それともドコか痛みがあったのか・・・。
お父さんは夜になるとベッドから降りるコトはなくなったのだけど、急に寝返ったり起き上がったりと目が離せない。

でも明け方あたりからは、お父さんの寝返りも少なくなったせいもあって、私もウトウトしていた時コト。
ふと目を開けるとお父さんがベッドの上で、ちょこんと座っていた。いつの間にか明るくなってて、そんなに長く寝てしまったのかと焦ったのと同時に、なんだかフツーに座ってるお父さんの状況が飲み込めずに戸惑った。

「あれ?お父さん??
 ダイジョウブなの?!」と驚いて尋ねる私。
「おぅ、なんかスッキリしたわ。
 悪かったな。寝とらんのだろ?
 もう大丈夫だから、オマエは少し寝た方がいい。」とお父さん。
私とお父さんのやりとりに、ソファーで寝ていたオットも起き上がってコッチを見ていた。

・・・・と思ったら、ふと再び目が覚めた。

そう、夢だったのだ。
まだ実際には部屋の中は暗く、そしてお父さんは枕に足を乗せて足元に頭がきている状態で眠っていた。
体の向きを整えて、少し肌寒くも感じたので布団をかけた。

その頃からお父さんは自分で動くコトがなくなった。


そのまま朝を迎えて午前中、朝早くから貯まっていた伝票類だけ片付けてきたと病院に来たお母さんと変わって、オットと二人で実家に戻り、仮眠をとった。
夕方になってお母さんと交替しようとシャワーを浴びたりして出かける準備をしていると、お母さんから呼吸の様子が変わったのだと連絡が入った。

急いで支度を終えて病院へ駆けつけると、市外へシゴトで出ていたお兄ちゃんも既に病室にいた。

そしてそれから2時間してお父さんが亡くなった。


お父さんが肝性昏睡になっても涙は出なかった。
悲しくもなかった。
もうすぐ死んでしまうかもしれないのに。

でも、お父さんの最期は猛烈にいろんなコトがふき出してきたような気がした。
とにかくお父さんが目の前からいなくなってしまうような気がして嫌だったというキモチの方が強かったように思う。
私はお父さんにとても可愛がられていたんだと思う。
私の言うコトなら、結局なんでも聞いてくれるとい気持ちがドコかにあった。
「まだ死ねないって言ったじゃん・・・」

お父さんが先に死んでしまうのは当たり前のコトなのでしょうが、私はお父さんにまるで見捨てられたかのように悲しくて仕方がなかった。


その後、お通夜→お葬式と慌しく過ぎた。

大勢の人が集まるトコロでは、出しゃばりなくらい仕切り屋だったお父さん。
でもそのお父さんがいないのが、私にとってはとても不自然だった。

そして何よりも、お父さんの知人や親類がお悔やみを述べてくれているのが苦痛で仕方がなかった。


お通夜やお葬式の読経すらうるさく思えた。


それらが私に「お父さんは死んだんだ」って言っているような気がして、ずっと苦痛で仕方がなかった。

そんな中で、病状はモチロン、帰省しているコトだって知らせられずにいたのにも関わらず、急な朝っぱらからの電話1本でお手伝いを引き受けてくれたヒロコ嬢を含め、親友たちが嬉しかった。
彼女らが、私の顔色を伺うコトもなくいつものように「任せといて!!」と笑顔で応えてくれたのは大きな支えにもなった。


でもやっぱり、お父さんとの別れがツラくて。
お葬式の後の出棺。
名古屋では火葬場が狭いので、顔を見られるのは式場を出る時までになっている。
出棺前に棺に花を添えたり、お酒をクチに含ませたりしていたのですが、それすらも私は受け付けられないでいた。
お父さんの周りに集まる人の後ろで、私は文字通り泣き崩れてた。


オットが私をお父さんのトコまで連れていってくれて、一緒に花を添え、そしてお酒をクチに含ませて・・・とやってくれたのですが、オットがいなかったらきっと、最期に顔を見るコトもできなかったのかも知れません。



それからしばらく実家で私は過ごして、帰宅したのですが。

出かけると、お父さんの世代の男性を見るとお父さんがカブってしまっていたたまれなくなる日が続いた。
スーパーに出かけても、車に乗っていても、すれ違う人がお父さんに見えて・・・。

義父ですら、お父さんと重ねて見てしまいツラい日々が続いた。


お母さんもお兄ちゃんも、お父さんのいなくなった後の生活を歩み始めている。
お父さんが残した実家も売って、新しい場所に住むというお母さん。
お父さんが立ち上げた会社を継ぐにあたって、お父さんがやって来たシゴトを整理するお兄ちゃん。
私ダケがいつまでもお父さんを引きずって、シゴトすらできずにいる。

看護師になったコトを一番に自慢してくれたお父さんだったのに、私はもう看護師はできないと思った。
病気の人なんて、もう看れないと。


でもコレは乗り越えなくてはならないコトなんだろうなと思う。
会社を移転して、実家までも引き払うというハナシを聞いた時は、お父さんが残したモノがどんどん無くなって行くように思えて悲しくもあった。
でも、嫁に出た私が口を挟むコトではないと思って納得させてきた。

だけど。

私はお父さんが死んだコトを盾にして甘えてるんだと思った。
いつだって、お父さんに甘えてきた私。
だけどお父さんはもういない。

いい加減、自分で立たなきゃならないんだってコトなのかなと思う。

キモチの整理もそうだけど、イロイロなコトを整理していかなくてはならない。
お父さんが死んで3日も立たないウチに、お父さんの衣類を整理していたお母さん。
私はツラくて手伝うコトもせずに、腹立たしくさえ思えて出かけてしまった。

でもそのキモチが今ならわかるような気がする。
お母さんもツラかったんだ。

でもツラいばっかじゃダメなんだ。


私が出かけて1人で片付けながら、もしかしたら泣いていたのかもしれない。




ごめんね。

私もちゃんと前に進もう。
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